坐禅とはなんぞや!
只管打坐、ただ坐れと道元禅師。
坐ればわかる! 坐り続ければわかるのだろうか!
と、坐り続けられない我がいる。
臨済宗の山田無文老師の著書にこんな言葉を見つけた!
この六祖大師が、「坐禅」ということを定義して、「外、一切善悪の境界に於いて、心念起こらざるを名づけて坐と為す。内、自性を見て、動ぜざるを名づけて禅と為す」と言っておられます。「私どもの意識が、外面的には、世界の一切万象に向かって、いいとか悪いとか、美しいとか汚いとか、あるとかないとか、迷いだとか悟りだとか、罪だとか救いだとか、損だとか得だとかいうような、差別的分別の起こらないのが、坐ということである。それから、内面的には、意識が意識自らの本質を自覚し、その絶対無ともいうべき本質を踏みはずさないことが、禅ということである」と言っておられるのであります。坐禅を、形式的に批判せずに、実質的に把握された、尊いお言葉だと思います。
かといって、動かぬ心とは、留まったこころではない。
沢庵禅師曰く、「不動と申し候いても、石か木かのように無性なる義理にてはなく候。向こうへも、左へも、右へも、十方八方へ、心は動きたきように動きながら、も止まらぬ心を不動智と申し候」となるわけである。
タモさんがよく言うプロペラのことだろう。動きのはやいプロペラは動いているように見えない!
坐り続けることでこのへんが観えてくるのだろうか!?
頭の右往左往はしっかりと止めて、日々坐りたいものだと思う。